東京BLOG

生命科学の研究者のブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ゾウを観る時に考えること




ゾウは鼻を器用に使って食べ物を口に運ぶ。

僕たちは物心付いた時からゾウという動物を知っている。それが巨大で鼻の長い動物であり、アフリカの大地を闊歩していることを知っている。子供の頃、親に連れられて訪れた動物園でその姿を目の当たりにし、「大きいねー」とか「お鼻が長いねー」とか言いながらはしゃいだ人も多いだろう。そして初めて見た時からゾウは鼻を使って餌を口に運ぶので、多くの人はそれはそういうものなんだろうと心の中でその事実を了承していると思う。

僕もかつては動物園でゾウを見ても特段驚かなくなっていた人の一人だった。

しかし、大学生の時に生命科学の研究者になると決意し、生命科学や進化生物学の講義を受けながら生物についての知識を深めていた時、当たり前に思っていたゾウから生命の神秘を再発見する瞬間があった。

"再発見"という言葉を用いたのは、小学生くらいの時に昆虫を集めたりして自然の中で遊ぶことに傾倒していた時期があり、その頃から生物が好きだったからだ。生命科学の研究者で、かつて昆虫マニアだったという人は多いのではないだろうか。

ただし、そうやって幼少期の自然との触れ合いの中で人々が感じる生命の神秘は、しばしば"多様性"の文脈で語られる。なぜなら多様性は生物の外見だけとっても明らかな概念であり、多種多様な生物が多種多様にこの地球上に暮らしていることに神秘を感じるのだろう。僕もそうだった。

僕が大学で生命科学を学んでいく中でその神秘を再発見した理由は、多様性よりむしろ生物間の"保存"にあった。

例えば解剖の実習。カエルとラットを解剖する機会があった。両生類と哺乳類という違いがありながら、両者には多くの共通点がある。脳・心臓・肺・消化管があり、それらが似たような場所に似たような形で配置されている。腿の筋肉の付き方とかそっくりだ。このことはカエルとラットは基本的に同じシステムで生命を保持していることを意味している。呼吸によって空気を肺に取り入れ、血液に酸素を補給する。血液は心臓によって全身に送り出され、全身の細胞に栄養と酸素を届ける。口から取り入れた食料は胃や小腸で消化され、小腸壁から養分として血液に吸収される。脳は五感から入ってくる情報を処理し、運動神経を介して筋肉を収縮させて行動を起こす。これらの生命を保持するシステムはカエル・ラットに限らず多くの動物種で保存されている。

セントラルドグマと呼ばれる、DNAに書き込まれた遺伝情報から細胞の機能に必要なタンパクを合成するシステムに至っては、動物間ではもとより植物、さらには細菌を含めたすべての生物で保存されている。このことは、地球上のすべての生物がたった一つの祖先からとてつもない時間をかけて現在見られる多種多様な生物に進化してきたということを意味すると考えられている。

今あなたの腸の中でうごめいている何兆個もの大腸菌。その大腸菌とあなたは、何十億年も遡れば、元は同じ生物を先祖としている可能性が高い。

ヒトと大腸菌の先祖が分離したのはたぶん生物史においてもかなりの初期段階だろうが、ヒトとゾウはそれに比べたら超近縁だ。少なくとも同じ哺乳類に分類されているので、生命を保持するシステムはカエルとラットが似通っている以上にヒトとゾウでは保存されている。内臓・筋肉の構造や骨の数までほとんど同じだ。




しかしながら、少し遡ると我々と同じ先祖にたどり着くにも関わらず、ゾウはその巨大な体もさることながら、あの長い鼻をどういうわけか獲得したのだ。長いだけじゃない。今あなたの顔の鼻を鏡で見てみてほしい。顔についてるただの突起も同然で、あなたはその鼻を動かすことはできない。ましてやその鼻を使ってものを掴むことなんて到底できない。できるわけがない。しかしながら、どういうわけかゾウの鼻には発達した筋肉が張り巡らされ、ぶっとい神経が通り、彼らの意の赴くままに動かすことができる。彼らは四肢を体を支えるのに既に使っているにも関わらず、その鼻を五つ目の肢のように駆使し、低い所にある食糧も高い所にある食糧も難なく口に運び、その鼻に水を含んで口に注いだり、水を周囲に振りまいて遊んだりする。さらには訓練されればその鼻に筆を持って絵を描くことだってできるのだ。それはもう鼻と呼ぶには忍びない。我々の顔についているただの突起と同じ名称で呼ぶのは失礼に値するのではないか。

このように多様性はその裏にある保存を考慮することでより神秘的でエキサイティングな生物の魅力になる。

いったいこんな進化がどうやって起こったのか、そんなことが可能なのかと思うが、実際はこの進化は段階的に少しずつ起こったことが分かっている。中間の生物は現代に残っていないのでその進化をイメージすることは難しいが、化石で中間の生物は見つかっている。上野動物園にはその鼻の進化について解説のパネルがある。





動物園や水族館には今でもふらりと一人で立ち寄る。一人で行けば上記のような調子で心行くまで観察していられるから。この生命の神秘は、僕を研究に向かわせる一つの原動力でもある。

スポンサーサイト

研究者としての責務

研究者を目指す人が、研究者を目指すようになった理由は色々あると思う。

例えば親が研究者で憧れていただとか、自分や親族の病気に触れて治療法を開発したいと思っただとか、ただ単に研究して真理を探究するのが好きだからとか、色々だと思う。

色々な動機があって当然で、それで全く問題ないと思うが、一度研究の世界に足を踏み入れたなら、各々の動機に関わらず「科学」とはいったい何なのか、「科学コミュニティ」の一員として自分の役割は何なのかということを考える機会があるべきだと思う(指導教官がそういう機会を与えるべき)。なぜなら「科学」はそのコミュニティの協力と努力で発展していくもので、研究者は科学の発展のために努力するものだから。

「自分は〇〇のために研究者になったから〇〇のためだけに精力を注ぐ」と考える研究者が居たとすれば、僕はその人は研究者失格だと思う。研究者には「科学コミュニティ」に対して果たすべき義務があり、自分勝手な理由でそれを拒むことは研究者としてあってはならない態度だ。

例えば科学に必要不可欠なシステムとしてpeer review systemがある。論文を投稿した時に同分野の研究者がその内容を査読するこのシステムは、ボランティアで行われる。何故貴重な時間を割いて他人の論文を無償で審査するのかという理由は、どの研究者もpeer review systemの恩恵にあずかることと、そのシステムが科学を推し進めるのに必要だからだ。「第三者によってその内容が精密に審査された」ということは論文の手続きや主張の正当性が保証されることでもあるので、論文を投稿する研究者は必ずその恩恵を受ける。自分だけ投稿者としてpeer review systemの恩恵にあずかって、逆に査読者としてコミュニティに奉仕はしないということは決して褒められた行為ではないので、多くの研究者は論文の査読をたとえボランティアであっても引き受ける。

そしてこのシステムは科学が発展するために必要不可欠だ。論文の手続きや論理構成に誤りが無いか、論文で導かれている結論が妥当なものか査読者が審査することで、きちんとした内容の論文だけが「査読済み」論文として発表される。そしてその信用性のある論文を多くの研究者が読み、それを引用して新たな論文を書くことで科学という「集合知」が発展していく。だから査読という行為は、論文の瑕疵を何とか見つけて何かといちゃもんをつけるような行為では決してなく、「どうしたらこの論文がより多くの研究者のためになる内容になるか」という思考法で行われるポジティブな行為なのだ。このことを理解していないひたすらネガティブな査読者も往々にして存在するようだが。

捏造論文が許されないのは、科学コミュニティに全く貢献しないだけでなく逆に害を及ぼすからだ。peer review systemは性善説に基づき、著者が嘘をついてないという前提で論文を審査する。仮に著者が嘘のデータで論文を投稿しても、多くの場合それを査読者が見抜くことは困難だ。そして一度捏造論文が発表されてしまうと、多くの研究者がその追試等で貴重な時間を浪費してしまう。

だからもし研究者に科学コミュニティに貢献しようという意識があるなら、捏造なんて起こり得るはずがないのだ。捏造は目先の業績や名誉に目がくらんだ卑怯者の行為だ。それに真の研究者としての功績は、たくさんの論文に引用されて科学の発展に寄与した仕事の上に築かれるもので、決して再現不可能な捏造論文の上に築かれるものではない。

昨今の科学業界でのスキャンダルを追いながらそんなことを考えていた。たぶん犯罪が無くならないように、捏造も無くならないだろう。それでも、研究者としての心構えの教育が浸透すれば少しでも愚かな行為が無くなるのではないだろうか。pubpeerを介した匿名者による監視や、SNSによる不正発見の世界同時的な共有が、捏造のダメージを少なくするような方向に働いていることは時代の変化として良い事だと思う。

「その研究何の役に立つの?」:基礎研究vs応用研究

こんな記事に行き当たった。科学の世界にいる人にとって重要な問題なので紹介したい。

同世代の若手研究者を見て感じたこと(-ズバッと!東大な日々。- の、その後の日々。)

科学の発見や成果の3DCG映像を作製している会社・SCIEMENTの代表である瀬尾拡史さんが2年前に書いた記事だ。

記事中にこんな記載がある。

「自分が好きだからやっている。」「なんか興味があって。」
と言う動機で研究をしているのであれば、大学での研究の多くが多額の税金を投入して行われる研究体制の中で、大学の研究者としての道を歩む資格は無いのではないかと思います。
 やりたいことだけやる、興味があることだけをやるのはアマチュアです。もちろん、自分の興味がなければ、情熱がなければ研究に限らずどんな仕事も二流で終わってしまいますが、将来どうしたいか、究極的には何を成し遂げたいか、を常に意識して研究にあたってほしいなぁと思うわけです。最終的な目標を達成するためには、泥臭いことや嫌いなことも乗り越えなければいけないかもしれません。でも、自分が苦手なことや嫌いなことも一流として行う。それがプロだと思うのです。



僕は初めにこの箇所を読んだ時、感じるものがあったのだが、案の定コメント欄でここの記述に関して反対意見が書き込まれている。例えばコメントの一つでは、GFPの発見でノーベル賞を受賞した下村先生の研究動機が「綺麗だから」であったこと、現在世界中の研究室で広く使われる研究に必須のツールである"PCR"に必要な酵素が発見された経緯が「たまたま温泉の水を見てみよう」とある微生物研究者が思ったからであることを引き合いに出し、「研究者の単なる興味」から始まった研究が後の多大な社会貢献につながった例を紹介している。

このコメントの指摘は僕もその通りと思う所で、GFPの例を使うなら、GFPの発見が現代の研究に与えた影響は計り知れない。GFPを使って生物現象を可視可することで明らかになった研究成果は数えきれないほど存在し、その成果が病気の原因の解明や新薬の開発に直結した例もたくさんあると思う。しかし、下村先生がそのような社会貢献を目指してGFPの研究を行ったかというとそうではなく、その動機は「綺麗だから」なのだ。GFP以外でもこのような例は山ほどある。

科学の歴史を振り返ると、その発展の主な原動力となっているのは間違いなく科学者が持つ純粋な興味だと思う。科学者の純粋な興味無くして現在の科学技術は存在しないと言っても過言ではない。その歴史を無視して「興味があることだけをやるのはアマチュアだ」という主張には賛成できない。

記事についている別のコメントでも挙げられているのだが、実は科学者の純粋な興味を追求する研究(一見何の役に立つのか分からない研究)と明確な社会応用を目指した研究はそれぞれ別の性格を持ったものとして分けて考えられており、前者を「基礎研究」、後者を「応用研究」という。コメントでは別のブログ記事(外から見た)事業仕分け雑感-potasiumchの日記-が参考に紹介されている。

瀬尾さんの発言は「基礎研究はアマチュア」と切り捨てているのも同然なのでコメントで反感を買った。研究の世界にいると基礎研究が重要なことは周知の事実なのだが、瀬尾さんが発言していることからも想像が付くように、研究の一歩外の世界にいる人でも基礎研究の重要性を理解してない人は多いのではないかと感じている。ましてや一般の人々になるとその割合はもっと上がるだろう。

一方で国の税金を使って科学研究が行われている以上、納税者である国民が「その研究何の役に立つの?お金の無駄使いじゃないの?」と疑問を持つのも当然のことなのだ。瀬尾さんも上記のコメントの返信で以下のように発言している。

でも、そのきっかけ、ひらめき、探求心を研究につなげるためには、やはり研究資金や人手など、現実的な様々な問題を乗り越えなければいけません。「あなたに任せれば面白い研究成果が出来そうだから、なんでも自由に研究費使って良いよー」と言う状況が存在するのであれば良いのですが、ほとんどの場合はそうではなく、どこからか資金を確保したり、人を確保しなければいけないわけで、そのためには、研究の早い段階で、自分以外の人を動かすような何かを持っていなければならず、そのためには、「その研究で何がわかるのか。」「将来その研究で何をしたいのか。」を考えることは避けて通れないと思うのです。



基礎研究無くして科学の発展はありえない。その事実を盾にして「国が基礎研究に投資するのは当然」と考えるのは科学者の一種の怠慢で、国の予算が有限である以上科学者は何故基礎研究が大事なのかということを説明する義務があるように思う。(このような科学者と国民をつなぐ役割を果たす人として昨今「サイエンスコミュニケーター」という職が注目を浴びている)。それが夢のある研究で科学者がどうしても行いたいと考えるなら、それがどれだけ夢のある研究なのかということを科学者が説明できなくてはならないと思う。

一方で、日本が国策として科学立国を目指す限りは、基礎研究の重要性を国が国民に働きかけるということも重要なことだと僕は考える。イノベーションという言葉を最近の政策でよく目にするが、イノベーションをもたらす発見はどこから出てくるのか分からない。それこそオワンクラゲの一見役に立たなそうな研究が生物学研究のパラダイムシフトをもたらすことだって過去にはあったのだ。「その研究何の役に立つの?」と基礎研究を切り捨ててしまうことは、イノベーションの種を切り捨ててしまうことと同じだと思う。前述のように科学者から国民への歩み寄りも大事だが、国民がそのような一見役に立たなそうな基礎研究の重要性を理解することも大事だ。科学立国を目指すなら、国は教育を通して基礎研究の重要性や科学の歴史・方法論を国民に周知すべきだと思う。

日本ではこれまで世界に大きく影響を与える素晴らしい研究がたくさん行われてきた。これからもそういう素晴らしい研究が出続けてほしい思うし、国の誤った政策や科学への無理解でそのような芽が摘まれてしまわないことを願っている。

研究と感情

研究を進めていく上で、自分の感情とどう向き合うかという問題にしばしば突き当たる。

「科学」とは実験によって再現性のあるデータを取得し、それを論文として発表することで知識体系を築き上げていくプロセスだ。科学論文で最も重要な内容はそこに提示される「データ」であり、文章はあくまでデータを説明するために存在する。データというのは言うなれば「自然現象」そのものであり、そこに人の感情が入る余地は一見すると無いように思える。

しかし、人の行為は常に感情の影響を受ける。人の行為の結果として得られるデータも当然感情の影響を受け得る。中立なメディアが存在しないように、中立なデータも存在しないと言っても過言ではないだろう。データが人の感情に影響を受けるということは、間違った論文や再現性の無いデータが生まれる最たる原因ではないだろうか。

それでは単に感情を排除すべきかと言うと、そう単純な話ではない。そもそも我々の行為から感情をすべて排除することなんて不可能だろう。「この実験をすることによって〇〇を明らかにしたい」と思うのも立派な感情だし、それを排除したら何のための実験なのか分からなくなる。


感情は我々を科学に向かわせる原動力でもあり、データの解釈時に障害となる邪魔者でもある。


例えばとあるデータから面白い仮説を思い付いたとする。この仮説を証明すればビッグジャーナルに掲載されるだろう。頑張ってこの仮説を証明しよう。こうやって一つの仮説に肩入れすることになる。実験を続けると、仮説に見合うデータと見合わないデータが出てくる。仮説に見合うデータが出てくるということはこの仮説は正しいはずだ。そう思い込み、仮説に見合わないデータには目をつぶり、さらに都合の良いデータが出てくるのを待つ。仮説と都合が合う綺麗なデータ(チャンピオンデータと呼ぶ)を並べて論文を書く。

某有名雑誌に載る論文の半分は再現性が無いという話を耳にしたことがあるが、それらの多くは上記のようなプロセスで生み出されたものだと予想する。嘘はついてないかもしれないが、科学によって築かれる知識体系に貢献はしていない。知識体系に貢献しないならその論文はゴミも同然だ。

感情にまつわる問題は、ディスカッションをしている時にもしばしば生じる。自分は当然自分の考えが正しいと思っている。相手に反論されても、さらに反論して自分の正しさを主張する。すると相手もそれに対してさらに反論する。誰だって戦いに負けたら悔しい。論戦に負けて自分の考えを変えるのは屈辱的だ。だから負けじと反論する。そうしていつしか議論は感情的な意地の張り合いになり、平行線をたどる。

このような問題は研究をしていく中で必ず生じることだ。

このような問題を抱えつつもきちんと科学を推し進めるために僕が心がけていることは、自然現象に対して謙虚になることだ。新しい発見というのは、往々にして我々の理解を超越するものだと思う。すべてが事前の仮説通りになるなんてことはほぼ起こりえないことだというのを理解し、出てきたデータに真っ新な気持ちで謙虚に向き合いたいと思っている。我々はあくまで自然現象の観察者であり、決して自然現象を創造する立場ではない。

ディスカッションをしている時も、相手の意見へのリスペクトを忘れてはならないと思う。自分が自分の主張に対して自信を持っているのと同様に、相手もそれ相応の根拠があってその主張をしている。その根拠をなるべく理解しようとすることを心掛けている。その努力なしに自分の主張一点張りではお互いにとって非生産的で浅はかな議論になってしまう。





というのを頭では思っていても、なかなか譲れないのが、自分の感情と付き合うのに難しいところ。


研究室内の距離感の話

学部4年の4月から研究室に配属されて、研究を始めた。

現在博士2年で4月から3年なので、研究を始めてから5年の月日が経とうとしている。

長くやっていると、色々な物事にたいして丁度良い程度というものが分かってくる。というより、自分にとって丁度良い程度に物事が落ち着いてくる。何のことかというと、例えば朝起きて大学に行く時間とか、一日の仕事量とか、実験の組み方とか、そういうものが持続可能な丁度良い程度に一定化してくるということだ。

研究室での人付き合いも例外ではない。

自分の身分は学生だが、もはや研究が仕事のようなものなので、言うなれば研究室は職場だ。そこは真面目に研究に取り組んで科学を推し進めることを最終的な目的とする場だ。当然研究室の雰囲気や環境は目的を遂行する上で重要となる。

研究を始めた当初は特になにも考えずに思うままに人と接していたのだが、学年も上になって責任が生じてくると、研究室内の雰囲気や環境にも気を使うようになってくる。

当たり前のことかもしれないが、最近は上司にしても先輩にしても後輩にしても近すぎず遠すぎない距離を意識するように心がけている。距離が遠すぎてもコミュニケーションの頻度が少なくなって問題だし、近すぎると批判的な姿勢を保つことが難しくなる傾向があるからだ。

もしかしたらこのようにコミュニケーションに制限を加えることで、後輩などから冷たい先輩として見られることはあるかもしれない。仕事の時とそれ以外の時でメリハリをつけ、飲み会では一時的に垣根が低くなることもある。それでも、僕としては研究に取り組んでいる時はちょっと余所余所しいくらいの距離感がちょうど良いと感じる。

仮に気の合う同期が研究室内にいれば、その人は例外となったかもしれない。幸か不幸か今の研究室に同期はいない。研究室外の友達といる時は一々距離感なんて気にしない。研究室外の同期と飲み会を開くと、それぞれがラボの愚痴を言い合って終わるなんてこともしばしばだ。

僕が気をかけて絶妙に保とうとしている研究室内での距離感を乱そうとするものにはできるだけ抗いたい。

しかし、時にどうしようも抗えないものもある。







THE 色恋沙汰

研究室内で出会って結婚するカップルは世の中に五万といるだろう。それは考えてみれば当然のことだし、自然なことでもある。だからそれが起こるのはしょうがないことだというのは十分承知している。

それでも、やっぱり、研究室内の色恋沙汰は









くっそ面倒だ!!



上手くいっているカップルはまだ良いかもしれない。研究室内でいちゃいちゃさえしなければ特に害はない。たまに培養室とかちょっと隔離されている部屋にカップルが二人きりで入ってたりすると、すごく入りづらい時があるので勘弁してほしいが、まあそんなに頻繁にあるというわけでもない。


朝研究室に来て、いつもより研究室の空気が殺伐としていたりすると、「あのカップルが喧嘩したんだな」と分かったりするが、第3者としてはそれでも特に害はない。





厄介なのは一方的な片思いだったり、三角関係が形成されている場合だ。
それにパワハラやアカハラが絡んでくると、
研究室はもはや

地獄絵図となる。



考えたくもない。




幸い僕自身がトラブルの原因となったことはこれまでには無かった(と自分では思っている)が、将来何が起こるかは分からない。
自分が当事者にならないように・・・というのは若干違う気がするので、
当事者になった時は周りに迷惑を掛けないようにしたい。

Top|Next »

HOME

あぴと

Author: あぴと
生命科学の研究者。ポスドク。東京という街が好きです。
興味のあること:
生命科学、基礎医学、進化生物学、英語、読書、美術、音楽

Twitter始めました



mail: tokyocicada☆outlook.jp

学振関連記事のまとめ


にほんブログ村

この人とブロともになる

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。