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生命科学の研究者のブログ

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「その研究何の役に立つの?」:基礎研究vs応用研究

こんな記事に行き当たった。科学の世界にいる人にとって重要な問題なので紹介したい。

同世代の若手研究者を見て感じたこと(-ズバッと!東大な日々。- の、その後の日々。)

科学の発見や成果の3DCG映像を作製している会社・SCIEMENTの代表である瀬尾拡史さんが2年前に書いた記事だ。

記事中にこんな記載がある。

「自分が好きだからやっている。」「なんか興味があって。」
と言う動機で研究をしているのであれば、大学での研究の多くが多額の税金を投入して行われる研究体制の中で、大学の研究者としての道を歩む資格は無いのではないかと思います。
 やりたいことだけやる、興味があることだけをやるのはアマチュアです。もちろん、自分の興味がなければ、情熱がなければ研究に限らずどんな仕事も二流で終わってしまいますが、将来どうしたいか、究極的には何を成し遂げたいか、を常に意識して研究にあたってほしいなぁと思うわけです。最終的な目標を達成するためには、泥臭いことや嫌いなことも乗り越えなければいけないかもしれません。でも、自分が苦手なことや嫌いなことも一流として行う。それがプロだと思うのです。



僕は初めにこの箇所を読んだ時、感じるものがあったのだが、案の定コメント欄でここの記述に関して反対意見が書き込まれている。例えばコメントの一つでは、GFPの発見でノーベル賞を受賞した下村先生の研究動機が「綺麗だから」であったこと、現在世界中の研究室で広く使われる研究に必須のツールである"PCR"に必要な酵素が発見された経緯が「たまたま温泉の水を見てみよう」とある微生物研究者が思ったからであることを引き合いに出し、「研究者の単なる興味」から始まった研究が後の多大な社会貢献につながった例を紹介している。

このコメントの指摘は僕もその通りと思う所で、GFPの例を使うなら、GFPの発見が現代の研究に与えた影響は計り知れない。GFPを使って生物現象を可視可することで明らかになった研究成果は数えきれないほど存在し、その成果が病気の原因の解明や新薬の開発に直結した例もたくさんあると思う。しかし、下村先生がそのような社会貢献を目指してGFPの研究を行ったかというとそうではなく、その動機は「綺麗だから」なのだ。GFP以外でもこのような例は山ほどある。

科学の歴史を振り返ると、その発展の主な原動力となっているのは間違いなく科学者が持つ純粋な興味だと思う。科学者の純粋な興味無くして現在の科学技術は存在しないと言っても過言ではない。その歴史を無視して「興味があることだけをやるのはアマチュアだ」という主張には賛成できない。

記事についている別のコメントでも挙げられているのだが、実は科学者の純粋な興味を追求する研究(一見何の役に立つのか分からない研究)と明確な社会応用を目指した研究はそれぞれ別の性格を持ったものとして分けて考えられており、前者を「基礎研究」、後者を「応用研究」という。コメントでは別のブログ記事(外から見た)事業仕分け雑感-potasiumchの日記-が参考に紹介されている。

瀬尾さんの発言は「基礎研究はアマチュア」と切り捨てているのも同然なのでコメントで反感を買った。研究の世界にいると基礎研究が重要なことは周知の事実なのだが、瀬尾さんが発言していることからも想像が付くように、研究の一歩外の世界にいる人でも基礎研究の重要性を理解してない人は多いのではないかと感じている。ましてや一般の人々になるとその割合はもっと上がるだろう。

一方で国の税金を使って科学研究が行われている以上、納税者である国民が「その研究何の役に立つの?お金の無駄使いじゃないの?」と疑問を持つのも当然のことなのだ。瀬尾さんも上記のコメントの返信で以下のように発言している。

でも、そのきっかけ、ひらめき、探求心を研究につなげるためには、やはり研究資金や人手など、現実的な様々な問題を乗り越えなければいけません。「あなたに任せれば面白い研究成果が出来そうだから、なんでも自由に研究費使って良いよー」と言う状況が存在するのであれば良いのですが、ほとんどの場合はそうではなく、どこからか資金を確保したり、人を確保しなければいけないわけで、そのためには、研究の早い段階で、自分以外の人を動かすような何かを持っていなければならず、そのためには、「その研究で何がわかるのか。」「将来その研究で何をしたいのか。」を考えることは避けて通れないと思うのです。



基礎研究無くして科学の発展はありえない。その事実を盾にして「国が基礎研究に投資するのは当然」と考えるのは科学者の一種の怠慢で、国の予算が有限である以上科学者は何故基礎研究が大事なのかということを説明する義務があるように思う。(このような科学者と国民をつなぐ役割を果たす人として昨今「サイエンスコミュニケーター」という職が注目を浴びている)。それが夢のある研究で科学者がどうしても行いたいと考えるなら、それがどれだけ夢のある研究なのかということを科学者が説明できなくてはならないと思う。

一方で、日本が国策として科学立国を目指す限りは、基礎研究の重要性を国が国民に働きかけるということも重要なことだと僕は考える。イノベーションという言葉を最近の政策でよく目にするが、イノベーションをもたらす発見はどこから出てくるのか分からない。それこそオワンクラゲの一見役に立たなそうな研究が生物学研究のパラダイムシフトをもたらすことだって過去にはあったのだ。「その研究何の役に立つの?」と基礎研究を切り捨ててしまうことは、イノベーションの種を切り捨ててしまうことと同じだと思う。前述のように科学者から国民への歩み寄りも大事だが、国民がそのような一見役に立たなそうな基礎研究の重要性を理解することも大事だ。科学立国を目指すなら、国は教育を通して基礎研究の重要性や科学の歴史・方法論を国民に周知すべきだと思う。

日本ではこれまで世界に大きく影響を与える素晴らしい研究がたくさん行われてきた。これからもそういう素晴らしい研究が出続けてほしい思うし、国の誤った政策や科学への無理解でそのような芽が摘まれてしまわないことを願っている。

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部活を途中で辞める奴は根性無しなのか?

「途中で部活を辞める奴は根性なし。人としてダメ。」みたいな意見をよく耳にするけど、全く同意できない。

(というのも僕自身が途中で部活を辞めた経験があるからなのだが・・・)

部活を辞めるべきでないという主張をする人の主な理由は以下のようなものに代表されるだろう。

・一度始めたことは最後まで継続するべき。
・途中で投げ出すべきでない。
・継続することで得られることがある。
・辞めたくても、辛いのを乗り越えることで根性がつく。

これらの主張には一理あると思う。確かに物事を継続することで成長できるという側面はあると思う。

しかし、僕にはこれらの主張に「部活を辞める」という選択肢を排除するほどの強い根拠があるとは思えない。

部活を辞めれば当然時間ができるし、その時間を新しいことに使うことができる。それは人によっては新しい部活かもしれないし、もっと別のことかもしれない。どちらにしろ、それまで時間が無くて実行できなかった新しいことに挑戦できるという風にポジティブに捉えることもできる。

しかし、一般的には部活を辞めることのネガティブな面ばかりが強調される傾向があるように思う。その傾向は部活を途中で辞めた人に対して根性無しとレッテルを貼ることからも鮮明に分かる。何故このような傾向があるのだろうか。

僕はこの部活を辞めた人に対するレッテル貼りは、それを支持する強い根拠は無いけれど周りの人がよく言うから信じられてきた迷信に近いものがあるのではないかと思っている。部活を最後までやり通した人と辞めた人、人数で多いのは圧倒的に前者だろう。人は自分の経験を美化して語るものなので、部活をやり通した人はその効能を力説するだろう。その声は部活を辞めた人が上げる声よりも数的に多いので、多数派として支持されてきたのではないだろうか。

もちろん部活をやり通すという選択肢が間違っていると言いたいわけではない。でももし、今の部活が合わなくて辞めようか悩んでる中高生、もしくはそんな悩みを持つ友達が周りにいる中高生がこの記事に辿りついたなら、僕は部活を辞めた経験者としてその効能を声を大にして言いたい。部活を辞めるという選択肢だって間違ってない。辞めたっていいじゃないか。「続けた方が良い」と勧める周りの声も一つの正論だけど、でもそうやって勧める人の大半は部活を辞めたことが無い。部活をやり通すという自分が経験してきたことを一方的に勧めている。でも、部活を辞めるという経験をしたこともない人が、辞めることは間違っているとどうして断言できるのか。

つまり、どっちの選択肢が正解かなんて結局のところ本人にしか分からない。本人にだってすぐには分からないかもしれない。だから、「周りの人が言うから」とか「根性無しのレッテルを貼られるから」とかくだらない理由で将来の可能性を潰すことはしないでほしい。周りにどう思われるかなんて大した問題じゃない。自分の時間を自分がどう生きるのかということの方が間違いなく大事な問題だ。

部活を辞めるということはネガティブなことばかりではない。新しい部活を始めるなら、それは自分の新しい可能性を広げる素晴らしいことだ。新しい友達と出会うこともできる。前の部活を続けていたらたぶん出会うことも無かった友達だ。広く多様な交友関係を作ることができ、それも自分の新しい可能性を広げてくれる。新しい部活に入らなくたって、勉強なり趣味なりにそれまで部活に割いていた時間とエネルギーをつぎ込むことができる。部活を辞めることにも間違いなくポジティブな側面がある。

僕の嫌いな言葉に「何事も良い経験だから」という言葉がある。これはその通りなのだが、この言葉を言うとすべての事が正当化されてしまう。全ての事柄が一様に正当化されるなんてある意味馬鹿らしいし、よくよく考えればそんな嘘みたいな言葉に意味なんて無いということは明らかだ。全ての人には自分の時間をどのように使うのか選択する権利があり、「何事も良い経験だから」という言葉でその選択肢を狭められる筋合いはない。自分にとって最適な選択肢は何なのか、自分は何がしたいのか、何が自分にとって幸せなのか、"誰かがそう言うから"ではなく"自分がこう思うから"という理由で答えを見つけてほしい。

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あぴと

Author: あぴと
生命科学の研究者。ポスドク。東京という街が好きです。
興味のあること:
生命科学、基礎医学、進化生物学、英語、読書、美術、音楽

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