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仮面浪人をした話 その2

仮面浪人で検索して訪れる人が結構いるので、もう少し当時のことを書いてみようと思う。
ちなみに最初の記事はこちら。
仮面浪人をした話




仮面浪人をする上で最も難しいことはモチベーションの維持ではないかと思う。この点で仮面浪人生は予備校生・宅浪生・現役生どのライバルと比べても難しい立場にある。予備校生や現役生は受験生としての環境が整っているので容易にモチベーションを保てるのは当然だし、宅浪生は自分を律することさえできれば周りに刺激物が無いのであまり自分を乱されることもないだろう。

仮面浪人は違う。特に単位を取りながら浪人することを選択した諸君。

キャンパスは刺激物に溢れている。

自分は喉から手が出るくらい入りたかったサークルに我慢して入らなかったが、サークルに所属してそれにのめり込んでしまったらもう後戻りは出来なかったのではないかと予想する。事実2回目の大学生活においてサークルで素敵な友人や楽しいサークル活動に出会えたし、それが1回目の大学でも存在したと仮定すると「別にこの大学のままでもいいかな」と思ってしまっていたかもしれない。一度居心地の良い環境を見つけてしまうと、それを捨てるのは容易ではない。

サークルに入らなくても、授業等で友人ができると、時にそれも障壁になるかもしれない。友人からの誘いを「(受験のために)勉強しないといけないから!」と断り続けるのも骨が折れるだろう。当然ながら自分以外のほとんどの人は受験勉強なんかしていない。普通の大学生はわざわざ仮面浪人生に気を使ったりしないし、全力で大学生活を楽しもうとするだろう。仮面浪人生は同じ大学にいながら友人とは全く別の世界にいるということを認識しなくてはならないと思う。

自分は幸いにも(?)友人と呼べるような友人ができなかったので、仮面浪人中に友人関係に悩まされることは無かったが、友人との付き合いも保ちつつ時間を作って単位のための勉強と受験勉強を両立できたかと考えると、難しかったのではないかと予想する。



仮面浪人をして、結果的に良かったと思えることも結構ある。

その中でも最たることは、大学という空間を一度経験することで、その空間をどうやって自分の将来に生かすことができるのかということを考えられたこと。高校生が大学の学部を選ぶ時、自分の興味と学部の名前を照らし合わせて何となく決める人が多いと思う。しかし、高校生のような大学の外にいる人が持つ大学のイメージと、実際に大学で行われていることが乖離することは多々あると思う。実際に大学に入って経験してみて、「想像してたのと違った・・・」と方向転換していく人を事実何人も見てきた。

実は僕も高校卒業直後は物理学科に進もうと思っていた。高校の時物理が大好きだったからだ。しかし、実際に大学で物理の授業を受けてみて、自分に合っていないんじゃないかと感じた。そこでもう一度、自分が将来何をやっていくのが良いのかということについて考え、諸々の経緯を経て生物学に至った。結果的に今楽しく生命科学の研究ができているし、当時の方針転換は全くもって正しい判断だったと思っている。仮面浪人中は、ある意味流れに逆らって孤独に日々を送っていたということもあって、自分を見つめなおし、将来についてじっくり考えることができたのかもしれない。

もちろんこれは単なる結果論で、本命大学に行く前に一度大学を経験してみようとして仮面浪人をするのは大きな間違いだ。しかし、ちょっと道を外れることの教訓にはなるかもしれない。日本人は決められたレールから外れることを恐れすぎる傾向があると思う。現役で大学に入って、大学生活を楽しんで、大学3年からは就活を始めて、大手企業から内定をもらう。それが悪いことだとは言わないが、でもその王道から外れることだって決して悪い事じゃない。王道を歩んできた学生しか採らない保守的で古臭い企業なんて時代の変化に対応できずにきっとそのうち潰れるはず(というのは僕の勝手な希望)。屈折した感情を抱えて一年間孤独に仮面浪人生活を送ることが、その後の人生をぐっと豊かにすることだってある。希望した大学に入っても学ぶ内容が何か違うような気がして途中から軌道修正することが、その後の方向性に多彩な選択肢を与えることだってある。一年間大学で授業・実習で必要な時を除いてほとんど誰とも話さなくても、その次の年には充実した大学生活を送っていることだってある。

一回や二回、いや例え何回でも、道を外れたってちゃんと戻ってくることはできるし、外れた先でもっといい道を見つけることもあるだろう。この記事に立ち寄った仮面浪人生も、成功しようが失敗しようが、その孤独な一年を将来の自分の糧にできるよう、陰ながら祈っている。

【関連投稿】
仮面浪人をした話 その3

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「何事も良い経験だから!!」

9月8日のエントリー、「部活を途中で辞める奴は根性無しなのか?」でも触れたのだが、僕は「何事も良い経験だから」という言葉が嫌いだ。

「何事も良い経験だから」と言う時、人はある行動を相手に推奨している。例えばAとBという選択肢があり、「Aを選んだ方が良いよ、何事も良い経験だから」とある人が言う。それはAを選択することがBを選択することよりも優れているということを意味している。その理由は「何事も良い経験だから」だ。しかし、何事も良い経験ならBを選択したっていい経験になるのではないだろうか?つまり、何事も良い経験だからという言葉はAという選択肢が優れていることの何ら論理的な説明になっていない。このように複数の選択肢の中から一つを勧める時にこの言葉を使うことに意味は無いし、自分ならこの言葉を聞いてもそれを考慮に入れることは無い。

「何事も良い経験だから」という言葉の本来の意味は「自分が経験したことはどんなことでもその後の糧となる」ということであるはずで、その発想に異論は無い。人はどんなことからもその気さえあれば何かを学ぶことができる。嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、不快なこと、どんな経験もその人のアイデンティティを形成する一部となってその人の将来に良い影響を与えることができる。

だから「何事も良い経験だから」という言葉も、「Aをするか、もしくは何もしないか」という選択肢でAを勧めるために使われるなら理解できる。何も考えずにボーっとしているのと、何かを経験しているのでは、何かを経験している方がその人にとっていい事であると僕も考える。

しかし、人というのは退屈が苦手な生き物で、どんなに消極的で受身な人でも、暇な時間には何かをしていることが多い。人は「何事も良い経験だからAを選んだ方が良いよ」とAを勧める。しかし、Aを選ばなかったことで浮いた時間を使って全く別のことを経験することだってできる。それだって当然良い経験だ。

人が生きていられる時間は有限だ。何事も良い経験だが、実際は何かを経験できる時間は限られていて、すべての事を経験することは不可能だ。したがって、人は日々の中で自分が経験することを無限の選択肢の中から常に選択して生きている。「何事も良い経験だから」というのは「どんな経験も自分の糧となる」という意味で当たり前のことで、それは無限の選択肢の中から一つを選択する論理的な理由にはなり得ない。多種多様な"経験の質"の中で、どれが自分の求める質なのか、何が自分にとって最良の経験になり得るのか、よく考えて選択すべきだ。

僕がこういう考えを持つようになったのも、以前何かを勧める理由に頻繁に「何事も良い経験だから」と言う知人がいたからだ。僕がその助言に従わざるを得なかった時、それってやっぱり違うんじゃないかと感じた。だからもし自分が今後誰かを指導したり部下を持った時には、「何事も良い経験だから」という言葉は決して使うまいと心に誓った。そういう経験をさせてもらえたという点で、その知人には感謝している。

ただその知人にも知人なりの哲学があるのだろう。というのも、自分が良かれと思った選択肢でも、結局それが良かったかどうかなんてパラレルワールドを自由に行き来でもできない限り確かめようが無いからだ。その意味では偶然に身を任せて何も考えずに片っ端から経験していくのも間違いではないのだろう。

考えて選択するか、偶然に身を任せるか、あなたはどちらを選ぶ?

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あぴと

Author: あぴと
生命科学の研究者。ポスドク。東京という街が好きです。
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