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生命科学の研究者のブログ

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「何事も良い経験だから!!」

9月8日のエントリー、「部活を途中で辞める奴は根性無しなのか?」でも触れたのだが、僕は「何事も良い経験だから」という言葉が嫌いだ。

「何事も良い経験だから」と言う時、人はある行動を相手に推奨している。例えばAとBという選択肢があり、「Aを選んだ方が良いよ、何事も良い経験だから」とある人が言う。それはAを選択することがBを選択することよりも優れているということを意味している。その理由は「何事も良い経験だから」だ。しかし、何事も良い経験ならBを選択したっていい経験になるのではないだろうか?つまり、何事も良い経験だからという言葉はAという選択肢が優れていることの何ら論理的な説明になっていない。このように複数の選択肢の中から一つを勧める時にこの言葉を使うことに意味は無いし、自分ならこの言葉を聞いてもそれを考慮に入れることは無い。

「何事も良い経験だから」という言葉の本来の意味は「自分が経験したことはどんなことでもその後の糧となる」ということであるはずで、その発想に異論は無い。人はどんなことからもその気さえあれば何かを学ぶことができる。嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、不快なこと、どんな経験もその人のアイデンティティを形成する一部となってその人の将来に良い影響を与えることができる。

だから「何事も良い経験だから」という言葉も、「Aをするか、もしくは何もしないか」という選択肢でAを勧めるために使われるなら理解できる。何も考えずにボーっとしているのと、何かを経験しているのでは、何かを経験している方がその人にとっていい事であると僕も考える。

しかし、人というのは退屈が苦手な生き物で、どんなに消極的で受身な人でも、暇な時間には何かをしていることが多い。人は「何事も良い経験だからAを選んだ方が良いよ」とAを勧める。しかし、Aを選ばなかったことで浮いた時間を使って全く別のことを経験することだってできる。それだって当然良い経験だ。

人が生きていられる時間は有限だ。何事も良い経験だが、実際は何かを経験できる時間は限られていて、すべての事を経験することは不可能だ。したがって、人は日々の中で自分が経験することを無限の選択肢の中から常に選択して生きている。「何事も良い経験だから」というのは「どんな経験も自分の糧となる」という意味で当たり前のことで、それは無限の選択肢の中から一つを選択する論理的な理由にはなり得ない。多種多様な"経験の質"の中で、どれが自分の求める質なのか、何が自分にとって最良の経験になり得るのか、よく考えて選択すべきだ。

僕がこういう考えを持つようになったのも、以前何かを勧める理由に頻繁に「何事も良い経験だから」と言う知人がいたからだ。僕がその助言に従わざるを得なかった時、それってやっぱり違うんじゃないかと感じた。だからもし自分が今後誰かを指導したり部下を持った時には、「何事も良い経験だから」という言葉は決して使うまいと心に誓った。そういう経験をさせてもらえたという点で、その知人には感謝している。

ただその知人にも知人なりの哲学があるのだろう。というのも、自分が良かれと思った選択肢でも、結局それが良かったかどうかなんてパラレルワールドを自由に行き来でもできない限り確かめようが無いからだ。その意味では偶然に身を任せて何も考えずに片っ端から経験していくのも間違いではないのだろう。

考えて選択するか、偶然に身を任せるか、あなたはどちらを選ぶ?

研究者とネットと人々

震災の後、放射能について一時期徹底的に調べ、ネット上で間違った情報を見かけるとコメントやレスでしらみつぶしに訂正してくという作業をやっていたことがある。

当時の僕は、溢れる情報に惑わされる人々に心を痛めていて、津波に原発事故と立て続けに災難に遭った社会のために何かできることはないだろうかと考えていた。考えた結果、自分の研究者の端くれとしてのスキルが活かせるのは、世間に出回っている情報の中で明らかに科学的な間違いがあるものを指摘することではないかと思い当たった。残念なことに当時は政府の信用が地に落ちていたので、人々は政府には騙されまいと情報に過剰に敏感になり、一部の人は明らかに行きすぎな反応をしていた。どう行動するかは各人の自由だが、明らかな誤報に対して根拠を示して誤りを指摘することで、惑わされている人々にとって少しでも良い判断材料になれば良いと思っていた。

例えば放射能を表す単位の読み方や変換方法も知らないどこかの市議が、米軍の資料を読み間違えて筋違いのブログ記事を書いているなら、元資料を精査してコメントで誤りを指摘し、その記事を拡散している掲示板でも理由を付けてレスを付ける。たかがそれだけの事だったが、そんな記事でも場合によっては何千人という人の目に触れるし、やらないよりましだろうと思っていた。僕一人の手が届く範囲は限られているし、数多くの匿名コメントの一つだったから、どれだけの影響力があったかは未知、というかたぶんほとんど無かっただろう。それでも僕が書いたコメントに対するポジティブな反応もあると、少なくともその人達に対しては影響が多少でもあったと思うことができた。

これらのことを通して学んだことは少なからずある。まず何かを主張することの大変さだ。たった一つのことを言うためにも、原著論文を何本も読み、関連情報を検索し、自分が導いた結論が誤りでないということを確かめる必要があった。これまでの自分の感覚に照らし合わせてこれは確実だろうと思ったことも、そのことを徹底的に調べる過程で「確実に正しい」と言えないからそのことについては判断を保留することも多々あった。

それから人と議論することの難しさだ。徹底的に調べて自分が間違っていない確信があることで議論しても、相手が「そうなんですね、私が間違っていました。考えを改めます。」と折れることは極稀なケースと言っていい。僕が自分の主張に自信があるように、相手も自分の主張に自信を持っている。僕からするとどう見ても妄想の世界に住んでいるような人でも、当人はそれが絶対の正義だと思ってやっているので、どんなに根拠を挙げて丁寧に説明しても絶対に納得しない。民主主義のシステムを作った人もこういう妄想の世界の住人の意見をどうするのか困っていたのかなと昔の人に思いを馳せた。そんな時でも、そのやり取りを見た第3者がどっちに説得力があってどっちが信じるに足りるのか判断してくれれば良いと思ってもいた。

当時僕はTwitterアカウントやブログはやっておらず、ひたすら匿名でコメントしていた。そんな僕がアカウントを持ってないTwitterで行き当たって感服し、思わず保存したツイートがある。@PKAnzugさんが放射性物質と鼻血の関係について議論していた時だと思う。

もう一つは、私は権威で納得させるような真似はしたくないんですよ。「実名の核医学医師が言ってるんだから信じる」ではなく「論理的で詳細な説明を読んで納得した」であってほしいんです。技術や説明の確かさで生まれるのは信頼ですが、肩書きで生まれるのは信仰ですから。あなたは「被曝の起こってる前線で頑張る立派な医師」という肩書きによる権威付けをよくしますが、実はこの権威には意味がありそうでありません。次はこのことを書きます。@PKAnzug 2011/06/22 11:54:45

僕はこの一連のやり取りを見て、これこそ科学者のあるべき姿だと思ってそれ以来ずっと心に留めている。「誰が話しているか」ではなく「何を話しているか」で内容を判断したい。そして僕も人々の検分に耐えうる言説を出すことで信頼を得たいと思った。

(そんな心がけをしながら、STAP騒動で早速権威に騙されてしまうことを経験したのだけれども・・・)

当時の僕個人の影響力は0に近いものだったのかもしれないけど、ネットを見ていて説得力のある議論をしてくれる専門家がたくさんいることを心強いと思った(@PKAnzugさんもその一人)。当時政府は情報の出し方を誤り、市民の信頼を失った。情報の足し方を誤った理由の一つは、情報を扱う市民を信用していなかったからだと思う。しかし、政府は間違っていた。少なくともネットを自由に扱える人は、信頼に足る専門家の情報にアクセスできたし、多くの市民はそれを分別する目を持っていた。その点は当時ネットを見ていて、日本人の教育レベルも捨てたもんじゃないなと思った。同時にネットが専門家と市民をつないでいるのを見て、科学と社会の関わりも新しい時代に入ったんじゃないかと感じた。




そんな3年前の思い出をふと思い出しましたとさ。

部活を途中で辞める奴は根性無しなのか?

「途中で部活を辞める奴は根性なし。人としてダメ。」みたいな意見をよく耳にするけど、全く同意できない。

(というのも僕自身が途中で部活を辞めた経験があるからなのだが・・・)

部活を辞めるべきでないという主張をする人の主な理由は以下のようなものに代表されるだろう。

・一度始めたことは最後まで継続するべき。
・途中で投げ出すべきでない。
・継続することで得られることがある。
・辞めたくても、辛いのを乗り越えることで根性がつく。

これらの主張には一理あると思う。確かに物事を継続することで成長できるという側面はあると思う。

しかし、僕にはこれらの主張に「部活を辞める」という選択肢を排除するほどの強い根拠があるとは思えない。

部活を辞めれば当然時間ができるし、その時間を新しいことに使うことができる。それは人によっては新しい部活かもしれないし、もっと別のことかもしれない。どちらにしろ、それまで時間が無くて実行できなかった新しいことに挑戦できるという風にポジティブに捉えることもできる。

しかし、一般的には部活を辞めることのネガティブな面ばかりが強調される傾向があるように思う。その傾向は部活を途中で辞めた人に対して根性無しとレッテルを貼ることからも鮮明に分かる。何故このような傾向があるのだろうか。

僕はこの部活を辞めた人に対するレッテル貼りは、それを支持する強い根拠は無いけれど周りの人がよく言うから信じられてきた迷信に近いものがあるのではないかと思っている。部活を最後までやり通した人と辞めた人、人数で多いのは圧倒的に前者だろう。人は自分の経験を美化して語るものなので、部活をやり通した人はその効能を力説するだろう。その声は部活を辞めた人が上げる声よりも数的に多いので、多数派として支持されてきたのではないだろうか。

もちろん部活をやり通すという選択肢が間違っていると言いたいわけではない。でももし、今の部活が合わなくて辞めようか悩んでる中高生、もしくはそんな悩みを持つ友達が周りにいる中高生がこの記事に辿りついたなら、僕は部活を辞めた経験者としてその効能を声を大にして言いたい。部活を辞めるという選択肢だって間違ってない。辞めたっていいじゃないか。「続けた方が良い」と勧める周りの声も一つの正論だけど、でもそうやって勧める人の大半は部活を辞めたことが無い。部活をやり通すという自分が経験してきたことを一方的に勧めている。でも、部活を辞めるという経験をしたこともない人が、辞めることは間違っているとどうして断言できるのか。

つまり、どっちの選択肢が正解かなんて結局のところ本人にしか分からない。本人にだってすぐには分からないかもしれない。だから、「周りの人が言うから」とか「根性無しのレッテルを貼られるから」とかくだらない理由で将来の可能性を潰すことはしないでほしい。周りにどう思われるかなんて大した問題じゃない。自分の時間を自分がどう生きるのかということの方が間違いなく大事な問題だ。

部活を辞めるということはネガティブなことばかりではない。新しい部活を始めるなら、それは自分の新しい可能性を広げる素晴らしいことだ。新しい友達と出会うこともできる。前の部活を続けていたらたぶん出会うことも無かった友達だ。広く多様な交友関係を作ることができ、それも自分の新しい可能性を広げてくれる。新しい部活に入らなくたって、勉強なり趣味なりにそれまで部活に割いていた時間とエネルギーをつぎ込むことができる。部活を辞めることにも間違いなくポジティブな側面がある。

僕の嫌いな言葉に「何事も良い経験だから」という言葉がある。これはその通りなのだが、この言葉を言うとすべての事が正当化されてしまう。全ての事柄が一様に正当化されるなんてある意味馬鹿らしいし、よくよく考えればそんな嘘みたいな言葉に意味なんて無いということは明らかだ。全ての人には自分の時間をどのように使うのか選択する権利があり、「何事も良い経験だから」という言葉でその選択肢を狭められる筋合いはない。自分にとって最適な選択肢は何なのか、自分は何がしたいのか、何が自分にとって幸せなのか、"誰かがそう言うから"ではなく"自分がこう思うから"という理由で答えを見つけてほしい。

笹井先生の死を悼む

衝撃的なニュースだった。

こんなことになるなんて全く予想していなかったし、何故笹井先生がという疑問は今も解消されない。故人となられてしまった今となってはもうその答えを知ることはできない。笹井先生ご本人が関わる研究や教育で貢献できたかもしれないことを考えると、非常に大きな損失だと言って差し支えないと思う。何よりこれまで輝かしい業績を上げてきた世界でもトップレベルの研究者が精神的に追い詰められて自ら命を絶つに至った心情を思うと心が痛む。心からご冥福をお祈りしたい。

笹井先生が行ってきた華々しい研究成果は下記のサイトに良くまとめられている。

笹井芳樹博士が科学界に遺した、偉大な業績まとめ



この件に関することで、著名人のブログからいくつか心に残った言葉を引用したい。

理研CDBで笹井先生と近しい関係にあった西川伸一先生はAASJ活動記録でこう述べている。

ヨーロッパ旅行中に笹井さんの自死を電話で知った。今回の問題についての様々な意見を聞いていると、笹井さんが活躍していた生命科学領域の科学者コミュニティーは、科学者間の連帯が欠如し、むき出しの競争だけがある格差社会へと変貌していたようだ。勿論笹井さんも、そして私自身もこの様な格差社会成立に手を貸した一人だろう。しかしついにこの格差社会が牙を剥いた。連帯感がある時人は死なない。今この研究者社会を担っている世代に対して言葉はないが、若い世代の研究者は、競争はしても連帯感が損なわれない新しい研究者コミュニティーを目指して欲しい。



STAP細胞の件にかつてのCDB幹部として関わり、科学者コミュニティ内外の人とこの件に関して議論・意見交換する立場にあった西川先生の言葉には重みがあると思う。西川先生は現在の科学者コミュニティにはかつてあった"連帯感"が欠如し、むき出しの競争だけがあると述べている。これが具体的にどういうことを指すのかはこの文章だけでは分からないが、iPS細胞コミュニティとの間で存在したかもしれない軋轢や、STAP論文の発表を大々的に打ち上げざるを得なかった理研の競争事情などを指しているのかもしれない。

また、元東京大学医科学研究所教授で現在はシカゴ大学の教授である中村裕輔先生は自身のブログでこう述べている。

本来は科学的に検証すべきものが、最初に華々しく打ち上げすぎた反動や小保方晴子氏の頑として非を認めない姿勢によって、完全にワイドショー化されしまった。その結果、副センター長として、責任著者として、メディア(私には、報道という名に値しない、低俗なゴシップ屋としか思えないが)の矛先が向かっていただけに、その重圧に耐えられなかったのではないだろうか。



超エリートの笹井氏に向けられた悪口は彼の20年にわたる業績をすべて帳消し、マイナスにするだけの破壊力があった。今回の事件の責任は決して軽いものではないが、個人を死に追い込むような報道の在り方は、社会全体によるパワハラのように考えられてならない。



私は笹井氏のようなエリートではないが、根も葉もない批判を少なからず受け続けてきただけに、笹井氏の心境が全く理解できないことはない。「溺れた犬に石を投げつける」と言っても過言ではない、新聞や雑誌を売るための、視聴率を稼ぐための報道姿勢、そして、嫉妬を悪意に変換した学会などの過度ともいえる個人攻撃姿勢が改まらない限り、また、悲劇は繰り返されることになるだろう。研究者は、ある日突然、自分が悲劇の主人公になるかもしれない。



中村裕輔先生はかつて、がんペプチドワクチンの臨床試験に関して朝日新聞からまさに根も葉もない批判記事を書かれた経験がある(参考)。その経験と今回のSTAP騒動に関する各メディアや研究者によるバッシングを重ね、過度な個人攻撃が笹井先生の死につながったのではないかと述べられている。

さらにブログ一研究者・教育者の意見でも以下のように述べられている。

笹井先生はNHKスペシャルを見ていたのだろうか?もし私が笹井先生であれば、「論文への使用画像・グラフの7割が信頼性に乏しいか、加工の疑いがある」というミーティングに集った専門家たちのコメントと、自己点検検証委員会委員長の「一つの論文のために人生をかけてきたことを失った」という発言は、立ち直れないほどのショックだっただろう。前者は、研究者としての眼力が無いと言われたに等しく、後者によって、今後の自分の将来が無いことを痛感しただろう。これらに比べれば、ブログで述べた「メールのやり取りの公表」は嫌悪感を抱いたとしても精神的影響はそれほどでもない。



これらのブログでは今回の件に関してメディアや研究者による個人攻撃の度が過ぎたという点で一致している。

一方で、STAP騒動に関して厳しく批判を行ってきた研究者の行為を「魔女狩り」と称し、それが笹井先生の死につながったとしてその研究者を厳しく批判するという批判の連鎖の構図ができているように思う。

西川先生の"連帯感の欠如"という言葉が身に染みる。

どうすれば良かったのだろう。今後どのようにしていけば良いのだろう。他人ごとではない。研究者の一人としてこの事件を忘れてはならないし、しっかりと考えていかなくてはならないと思う。

仮面浪人をした話

高校卒業から1年間、とある大学で所謂仮面浪人をしていた。

現役の時に受験した第一志望には見事に落ちた。運よく滑り止まった大学に行こうか迷ったのだが、周りに相談するとどの人も第一志望はあきらめて受かったところに行けという。全然気が乗らなかったが、仕方が無くとりあえず大学生になることにした。

晴れて桜咲くキャンパスに新入生として足を踏み入れた。しかし、僕の気分にはどんよりと分厚い雲が立ち込めていた。思い返せば僕はこの大学を卒業する気は無く、最初から仮面浪人をするつもりだったのだろう。その大学に入りたいサークルがあったのだが、入らなかった。

勉強する時間を確保するためだ。

根っからの負けず嫌いだ。高3の時は第一志望に合格したい一心で勉強した。毎日寝る間を惜しんで勉強した。それなのに、ダメだった。その事実は僕の心の中の壁に突き刺さり、取り除くことができなかった。自分があんなに望んで手に入れたいと全身全霊をかけて取り組んできたことに、失敗した。このまま終わっていいのか、失敗してそのまま引き下がっていいのかという自分への問いかけは一向に止まなかった。

こうして仮面浪人の一年が始まる。

同級生がサークルに入ったりクラスの友達とつるんで遊んだりして、各々の大学生活を楽しみ始めていた時、僕は講義が終わったら自宅に直行して勉強し、空きコマは図書館で勉強した。通学の電車の中でもせっせと英単語を覚えた。仮面浪人に失敗した時に留年するのは嫌だったので、講義は真面目に出席して真面目に聞いた。履修した講義の単位はひとつも落とさなかった。

この時僕は正真正銘のぼっちだった。

自慢ではないが、友達と呼べる人は一人もできなかった。一緒に遊ぶ友達も一緒に御飯を食べる友達も、どんな友達もできなかった。別に友達を作りたくないわけじゃなかったが、近くに気が合う人がいなかったんだと思う。講義はいつも前の方で一人で座り、昼飯は食堂の端っこの方でいつもおひとり様をやっていた。おひとり様の良い点は、混んでる時でも必ず席を見つけられること。3人とか5人の奇数グループの一人空いた席に平然と座り、後はウイーーンと自分の周りに見えないついたてを作ってひたすら空腹を満たせば良い。

回りからどう見られるか、どう思われるかを気にしない特技を身に付けたのはこの時かもしれない。

当然寂しかったと思う。エナメルのスポーツバッグを提げて講義室の一番後ろに陣取る学生、講義である日並んで座りだして付き合い始めたことがあからさまなカップル、帰り際にサークル棟から聞こえてくる管楽器の音。そういう景色を横目に唇を噛みながら日々を過ごしていた。しかし、そんな羨ましい光景を前にしても頑なに意思を変えないほど、自分にとって第一志望不合格の雪辱は大きかった。

その大学でやってきた冬が終わろうという時に無事仮面浪人を終了できると知った時は、本当に救われた。ずっと心の中に突き刺さっていたとげをようやく抜くことができ、仮面浪人先で耐えたすべてのことが報われた瞬間だった。同時に、失敗しても諦めなければチャンスがあるんだ、しっかりと仕事を積み重ねれば達成できるんだということを身をもって実感した瞬間だった。

【関連投稿】
仮面浪人をした話 その2
仮面浪人をした話 その3


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Author: あぴと
生命科学の研究者。ポスドク。東京という街が好きです。
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